真山 仁:角川書店
真山仁の作品には共通の特徴がある。
現実にあった事件のプロットを下敷きに借りつつ、独自の解釈を加えフィクションとして仕立て上げることだ。
今回の作品では、その前半でイラクでの邦人人質事件とその際の自己責任大合唱が素材としてとりあげられているが、どこまでがノンフィクションでどこまでがフィクションなのか判然とさせないのが著者の手法である。
ピカソは裸婦像を描くときヌードモデルをデッサンする。描きあげられた裸婦像はモデルの姿でもありモデルを離れたピカソの絵画である。
同じようなデフォルメが施された彼の作品を読むには高度なリテラシーが必要なのである。
著者はその前作において、朝日生命の経営危機、トーハトの破綻、日光金谷ホテルの再建などをモデルにしている。
これらのモデルが「知る人ぞ知る」事件であったのに対し、今回の事件は日本中の耳目を集め、いまだ記憶に鮮明な事件だ。
真山スタイルが社会からどう受け止められるのか、今回作がリトマス試験紙かもしれない。
さて、報道局の正義派ディレクター、お笑いで視聴率を稼ぐ敏腕プロデューサー、テレビ局を監督する総務省の女性キャリアを軸に、知られざるテレビ局の仕事を描くこの小説の後半部で、このテレビ局は粉飾決算が発覚し、地検の強制捜査を受けるなどの激震に見舞われる。
その対応のプロセスから、現在のテレビ局が抱える経営の脆弱さ、総務省監督下の護送船団体制の実態、政治との緊張関係の裏側に厳然と存在している凭れあい関係の実像が明らかになってくる。
地上波テレビは長くマスメディアの首位の座を保ってきた。
その上にテレビメディアは栄耀栄華を誇ってきた。
しかし、その繁栄の時代は終わろうとしている。
若者のテレビ離れの傾向は顕著であり、
インターネットの成長はテレビの接触時間の減少を招き、
HDDレコーダによるCMをスキップする視聴形態の一般化は収入の基盤である広告の効果に疑問を生じさせ、
BSデジタルやCATVのチャンネルの増加は、視聴率の分散につながり、
地上波テレビの圧倒的影響力を減殺させている。
20世紀後半。私たちは、マスプロダクション、マスセールスなどさまざまな「マスの終焉」を目撃した。
T型フォードの大量生産にはじまった20世紀は、まさに「マス」が繁栄を誇り、経済成長をリードし、やがてそれが多品種少量生産に移行することで「マス」が効果をうしなっていった世紀だったのだ。大衆は姿を消し、少衆・分衆が現れてきたのだ。
そして、唯一21世紀初頭まで生き延びてきた「マス」が「マスコミ」である。
その王者であるテレビが今、「マス」を捉えきれなくなっている。
そんな時に、地上波テレビのデジタル化の波が襲い掛かろうとしている。
2011年以降、各家庭にあるアナログテレビは見られなくなる。地上波テレビがデジタル放送に完全移行するからだ。
これに要するテレビ局の放送設備更新の費用は半端ではない。
地方局の中ではこの負担に耐えれない放送局が続出するのではないかとささやかれ、地方局の倒産や合併、支援を迫られるであろうキー局の財政の悪化の想定される。
孫正義、堀江隆文による、2度のIT企業の放送局買収はいずれも失敗したが、3度目の正直は決してありえないことではない。
この小説に見られるような経営陣の醜態を、もしかすると5年を経ずして私たちは眼前にするのかもしれない。